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誤用とは?

[ 128] 言葉の誤用 - 間違って使っていませんか?
[引用サイト]  http://starscafe.net/kotoba/misuse/

INDEX | 言葉にご用心 | 意味にご用心 | 誤字にご用心 | 誤読にご用心 | 重複にご用心 | 誤用板
本コンテンツでは――「汚名挽回」「的を得る」といったありもしない言葉を使ったり、「確信犯」「役不足」といった言葉の意味を間違って使ったり――よく見かける言葉の誤用を扱っています。誤用の中には、本来の用途とは反対に使われる例も多く、誤用している人は少なからず驚かれると思います。
どこから誤用といえるのか――これは難しい問題です。ここで紹介する誤用の中には、市民権を得ているものや一般化しつつある誤用も含まれています。そのまま使い続けても特に支障はありませんが、本来の意味を知っているのか知らないのかは大きな開きがあります。自分の使っている言葉に疑問をもたずにいると、間違いにもなかなか気付けず習慣にしてしまいがちです。
たかが誤用されど誤用、人に指摘されても自分で気付いてもちょっぴり――ときにはかなり――恥ずかしい誤用、そんな日常ありがちな、言葉の誤用を扱っています。
誰か一人はある誤用をしている――PCでは誤変換もしばしば起こる――ものである。それらをすべて紹介しているのでは埒(らち)が明かない。そこで、収録には幾つかの選考基準を設けた。
誤字と重複表現については、収録すべきかどうかを特に厳選した。漢字の偏(へん)や旁(つくり)、同音異義語、送り仮名、類音……とさまざまな因子によって、誤用は数多く考えられる。しかし、これらを並べ立てることは、体系が不明瞭になると考え収録を抑えた。重複表現は――「話し言葉」では誤用ともいえないものが多くある――「書き言葉」としての誤用であるが、これもまた、正誤の判断がつけにくく、単なる「強調表現」と受け取れなくはない。そこで選考には、誤用している人にとっての「意外性」、誤用だと知っている人にとっての「ユーモア」を重視した。
検索エンジンの結果も一つの基準としている。その結果が、全体に対して誤用2割を超えるものを、「一般的に浸透している『誤用』」として紹介している。しかし、なかには、2割に満たないものも収録している。それには、「『PCのせい』で起こる誤用もあれば『PCのおかげ』で避けられる誤用もある」という理由が挙げられる。検索結果には現れない要素も加味したのである。
基本的に扱っているのは、日本語の誤用です。日本語としてどのように使われるかを念頭に置いて、それとは異なる使い方をされる言葉を紹介します。原語と発音や意味などが違う、といった和製英語はここでは取上げません。
五十音順に紹介していますが、頭文字が片仮名の言葉の場合は、次の音が何であろうとその他の後に回ります(誤読にご用心 あ行の「アニミズム」「アボカド」など)。
基本的に、固有名詞は扱っていません。地名や人名など、一般的に読めない・書けない漢字は探せばたくさん見つかりますが、ここでは一般常識と思われる言葉を扱っていきたいと考えています。ただし固有名詞でも、一般常識に含まれ、ありがちな誤用と判断したものに関しては、例外として取り扱っていきたいと思います(「アルプス一万尺」「春日局」など)。
他人の揚げ足を取る目的で使用しないでください。そうでなくとも、扱いを間違うと藪蛇(やぶへび)にもなりかねません。身内や知人にならまだしも、赤の他人に――たとえ親切心であろうとも――指摘されて感謝が先行するとは思えませんから、話の種くらいに使うのが得策かと思います。しかし、私一個人に対してのご指摘なら幾らでもしていただいて結構です。
それから、私は特別な専門知識を持ち合わせておりません。普通に調べてわかることしかわかりません。難しい質問をされても答えられませんのであしからず。
説明文の多くは『大辞林 第二版』、『広辞苑 第五版』、『新明解国語辞典 第五版』から拾っています。扱うものが扱うものだけに、出来る限り個人的な発言や解釈、表現であろうと含めたくないと考えています。
辞書の説明がすべてとはいえませんので、幾つか併用して調べるのが望ましいです。都合のいいことに、ネット上には辞書を無料で提供しているサイトがありますので、これを利用しない手はありません。以下は、私が普段利用しているサイトです。
初期作成の資料は多くの部分をWEB探索で拾い集めました。その過程で自己完結してしまって、結局は表に挙げないままのものが私には多いのですが、今回は珍しく、サイトのコンテンツとして加えました。同じように興味のある人の話も聞けると思ったのが大きな理由です。だから、皆さんもご存じの誤用がありましたら掲示板なりメールなりどしどし持ち寄ってください。

 

[ 129] 日本語の誤用 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%AA%A4%E7%94%A8

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日本語の誤用(にほんごのごよう)とは、規範的な日本語(標準語・共通語)と異なる日本語の表現である。日本語の誤用は言語学上の概念ではない。言語学では言語について正しい・誤っているの判断をしないからである。また、誤読または誤用が定着した言葉については日本語の変化を参照されたい。
日常的に用いられている標準語(共通語)と、限られた場所のみで用いられる特殊用語(専門用語・隠語など)では、規範も当然異なる。たとえば、「視野に入れる」を「視野はおのずと目に入ってくるもので、自発的に入れようとするものではない」とか、事業を起こすことを意味する「立ち上げる」はおかしい、また「立ち上がる」は本来であれば起立、または奮い立つ意味で、これが「湧き上がる」と混用されているという意見が聞かれるし、「焼きを入れる」を体罰・扱きの意味で使うのは誤りであるという意見もあるが、これらは飽く迄も先述した標準語の規範に照らして誤っているというもので、杓子定規すぎる。
目上の人の過ちを正すために、その人を戒めること。→×目上の人が目下の人を戒めること。または、厳しくしかること。
元来、諫言(かんげん、諫めること)とは、忠義に逆らうことから自分の地位や生命を引き換えにするほどの強い意志が必要であった。時代背景が変わって目上・目下や忠義の意識が薄れてきたことから誤用されるようになった。
元々は、最初の子が女であると、比較的おとなしく育てやすく、子育てに慣れてから男の子を育てると楽に行くため、女の次に男の子が生まれるのが理想的だという意味である。
道徳的、宗教的あるいは政治的な確信に基づいて(本人としては良い行いだと信じて)犯す犯罪の意。テロがその代表的なものである。→×悪いことと知りながら意図的または作為的に犯す罪。転じて、意図的または作為的なキャラクターをさす場合もある。
「確信」という言葉が独り歩きしてしまった結果である。「確信犯的」という表現を使うべきではないかという意見もあろうが、殆どの場合は「故意犯」が正しい。
意味がほぼ逆に解釈されている。否定的な意味を含むためか。チャゲ&優子のナンバー『ふたりの愛ランド』でこの意味に使われたことが有名。相手に何かと気を遣うのが“気を置く”事。
自分の主張や考えを広く人々に知らせる。またそれによって人々に決意を促したりする。→×叱咤激励する。また、上司や監督が部下や選手に発破をかける。
多くは下に「べし」を伴って、ある事を是非ともしなければならないという意を表す。当然のこととして。必須。→×大方は。だいたい。
「為ならず」を古語的意味の「ために存在しない」ではなく、「ためにならない」と解釈してしまったことにより生じたものであろう。
誤用と知らず使われる傾向にあり、国語辞典によっては誤用それ自体が第二の意味として掲載されているものもある。
失望・落胆してどうすることもできないでいるさま。また、意外なことに驚きあきれているさま。→×怒りをあらわにして、ふて腐れるさま。
俳優などが自分の与えられた役に対して不満を抱くこと。転じて、その人の能力に対して役目が不相応に軽いこと。→×自分の与えられた役目が力量に見合わないこと。
これも意味がほぼ逆に解釈されている。力不足(力量を超える役割)と勘違いした結果である。語幹の似通った役者不足をこの意味で使う場合も多い。
カリスマ美容師などという言葉がマスメディアを通じて有名になったことが原因にある。それ以前に、カリスマ性などという表現を用いて、従来の意味と区別する傾向も見られるが、基本的には誤用である。
〜を超えた、次世代、別次元の。英単語でいうとpostに当たる。例:ポストモダンなど →×非常に、すごくなど形容詞、形容動詞を強調する接頭辞。英単語ではveryやmuchに当たる。
「超強い」とかは、本来は誤用である。たとえば「超現実的」は「非常に現実的」ではなく「現実を超えた」という意味である。しかし、あまりに一般化してしまったことと、本来の日本語に最上級にあたる表現がなかったことから、今日では広辞苑にも用法が認められるようになっている。
本来の意味を拡大解釈しすぎた結果、自分が何をしなくても周りがやってくれる、すなわち他人任せの意に執られるようになってしまった。
刑法典では罪の種類として「遺失物等横領」は挙げられているが罰条としての「遺失物横領罪」はない。そもそもその場にない“遺失物”を横領は出来ない。“その場にある誰かの落し物”が占有離脱物である。例として、放置自転車を所有者に無断で乗り回し乗り捨ててしまう事がこれ(その自転車は盗難車かもしれない)。
影は「差す」ものであって「立つ」ものではない。角が立つとの混同か。括弧内は俗語的かつなげやりな表現。影が陰に通じ、直接的な表現を避けるため、「なんとやら」とぼかした表現がかなり一般化してしまったための誤用ともとれる。
「弱冠」とは、(《礼記》曲礼上の『二十を弱と曰ひて冠す』から)20歳のこと。近代では少し意味が広がり、20歳前後を指すようになった。しかし、30歳というのはどう見てもこれに当てはまらないので、誤用としてみなされる。若干と音衝突のための誤用とも考えられている。
ちなみに、団塊の世代というのも元は昭和23(1948)〜25(1950)年にかけて生まれた第一次ベビーブーマーだけを指したが、近年は解釈を広げて、2006〜2007年現在、50歳代の熟年を指すようになった。
爆笑とは、大声で笑うことではなく、大勢が笑うことであるため、一人や二人がどんなに大声で笑ったとしても爆笑ではない。
「けり」は古典文学で「いとあはれなりけり」といった具合に「けり」という助動詞を文章の末尾につけて文を終わらせる事から生まれた言葉であり。kickの意味の「蹴り」とは何の関連もない。
サッカークラブチーム『横浜FC』の2006年のキャッチフレーズが「夢へ蹴りをつける」、同チームの同年度11月23日(木・祝)対徳島ヴォルティス戦のテーマが「青で蹴りをつける」だが、これはおそらくは単なる誤用ではなくサッカークラブチームとして言葉を意図的に変えていると思われる。ただし、検索すると幾分「蹴りをつける」の誤用をさらに広めてしまったのは事実のようだ。
「死に様」からの連想でできた語で、生きてきた過程を示す言葉としては相応しくないとされる。ここでの様は"「様を見ろ」→「ざまぁみろ」と同じニュアンスであるからだ。"との説明が作家等からも良くなされるが、本来「死に様」の「様」は単なる「様子」を示す「様」でありネガティブな意味合いは持たない(新明解国語辞典より概要のみ)。むしろ、「死に様」と言う言葉をネガティブに捉えること自体が「様を見ろ」の「ザマ」と言う音で類推さる語感からの勘違いである(よって、言葉としては、例えば「麗しい死に様」と言う文言も実際はありうる。文法的には動詞連用形に付く「様」であり、連濁となる。)。つまり、この意味で言うならば、複合語としての「生き様」も誤用とは言えない。ただし、「生き様」という言葉自体は、あらたまった場でそれほど使われるものでないことは確かである。
右の、正しい用語のような意味合いを意図しているのに、二つの四字熟語を混交させてしまった結果、逆の意味になってしまっている。
アニメ『機動戦士Ζガンダム』で、主人公のライバルジェリド・メサが言ったことが、アニメファンの間では有名。脚本家の間違いによるもの。ちなみにその後ジェリドが主人公への雪辱に挑んではことごとく返り討ちにあったことから『恥の上塗り』的意味合いで使うファンもいるが、[要出典]この意味でも「挽回」は適当ではないとされる。[要出典]
ただし、明鏡国語辞典の編纂にも関わった前筑波大学長、北原保雄は著書『問題な日本語』(大修館書店)において、「挽回」には「(今の悪い状態から)巻き返しを図る」と言う意味もある、とし、間違いとはしていない。 [1]
喧々囂々とは口々にしゃべってやかましいことであり、侃々諤々とは何の遠慮もせず盛んに議論を交わすことである。
「食指を動かす」は、関心を持つ、興味を抱くの意。「触手を伸ばす」は、自分のものにしようとして近づくの意で、もともとの意味が異なる言葉の混交によって出来た言葉と思われる。
弓道から起こった言葉なので「射る」が正しいとされるが、「射る」は矢を放つ行為・「得る」は命中した結果を示しているとして「的を得る」を誤用としない説もある。しかしこれについては、通常使用する場合は「的を射た」と過去形になるため「的に命中させた」という意味を持つ、という反論もある。
航空機の離陸および着陸と、乗り物の出発および到着とを混交した表現。「りちゃくりく」では発音しづらく、「はっちゃく」では印象が弱く聞き取りづらいため、混ぜて使われるようになったと推測される。
偽善者のふりをする、偽善者の真似事をする。→偽善者がその通りの偽善行動をとる。「ぶる」は先述のように「ふりをする、真似をする」という意味であり、偽善者本人に対し用いるのは誤り。あえて正しい表現をとるとすれば「善人ぶる」であろう。
「馬の骨」とは、現代では素性の知れない者、いわゆる「ぽっと出」を侮蔑する言葉であるが、本来の意味は血統、出処、転じて家系の意。意味の誤用が定着した言葉で、成句「どこの馬の骨とも知れない」から「馬の骨」の意味を類推したものか。
大いに感心すべきである。殊勝なことである。→(1)変わっている。変人のようである。(2)物好き。好事家であるさま。皮肉として使われていたようだが、誤用が定着して本来の意味を失ってしまった言葉の代名詞といえよう。集英社の雑誌投稿欄『ジャンプ放送局』にあった「奇特人間大賞」が誤用が広まった原因であるとする説もある。
金や物を出し惜しみしない。けちけちしない。→金銭的・物的な余裕は無いだろうにやたら奮発するものだと勘繰り、揶揄する言葉になった。したがってそうした意図がないのであれば、素直にありがとうございますと感謝の意を表わすべきである。
頭脳明晰であること。“快刀乱麻を断つ”と同義。→衝動的な行動に走ること。または、カッとなること。「堪忍袋の緒が切れる」からか。
(竜の顎の下にある、一枚だけ逆さに生えた鱗に触ると、必ず人を殺してしまう意から)(普段は温厚を以って知られる)目上の者を激怒させる・相手の癪に障る行為をする。→目上の者の勘気を被ること。竜は架空の生物であるため、性質を知れというほうが筋違いかもしれないが、竜というのは本来、温厚な性質とされ、背中に乗ることもできるのである。したがって、ちょっとしたことでは滅多に怒ることは無いのである。いわゆるイージーミスで他人を怒らせてしまうことに使うのは誤用である。
物と物の間の境の意から、道徳や規範によって行動・態度に示す区別、節度ある態度を言い、「けじめを食う」というのは他のものと比べて冷遇される意。→あらゆる場面で、面目を汚したり、裏切ったり、不祥事を起こしたりした者に対して懲罰または制裁を与えること。なぜか暴走族や暴力団、右翼・極左団体などの反社会分子の中で隠語的に用いられることが多い。
(身なりをきちんと整える意から)礼儀作法を教える。→最近ではしばしば虐待・体罰の口実に使われてしまう。
上記「しつけ」と同じ誤用がなされている。もともとは引き離されてようとしても必死に抵抗し、つかんでいた檻(手すり)が折れるほどの強い決意を持って戒めることをいった。
収入の少なさゆえに、余裕の無い生活。また、悠々自適な生活。→フリーターや被生活保護者に対する差別と捉えられてしまう。
悪い女性。→毒殺する女性。元は単に「悪女」の意味だったが、和歌山毒物カレー事件の加害者の女性に対する表現として用いられたことから、誤用が定着してしまった。[要出典]
寒さや不快感のために鳥類の肌のように毛穴が縮まること。→震え上がるほど感動すること。しかし「実際に感動したとき鳥肌が立った」という意見も少なくない。
借金を少しずつ返すこと。→曖昧なうちになかったことにすること。または、善からぬことが漸増すること。後者は「雪だるま式」との混同か。
うるさいこと。聞いたときの感じ。聞き心地。「手触り」「肌触り」と同様に「耳触り」として用いられてしまっている。
胃に違和感・不快感を覚える。また、吐き気がする。→腹が立つ。癪に障る。「イラつく」と同義語。「ムカッとくる」というのが独り歩きしてしまい、本来の意味で使うのはフォーマルな場では気が引けるという弊害が生じてしまった。
もと商人言葉。帳簿に儲けを「書き入れる」ことの意から、もっとも繁盛する時期。→×利益を「掻き入れる」と勘違いされた結果、当用漢字にない「掻」が仮名書きになってしまった。
最初に据えるお灸の意から、物事の手始め。→×妊婦が最初の赤ん坊を生むとき、腹の皮が切れるような痛さで苦しむことと誤解してしまっている。
ゼネコンとはgeneral constructorの略で総合建設業者の事。それだけで大手の建設会社を指す言葉。したがって、大手と付ける必要性はない。
動詞の後に付いて(「・て-」の形で)主体が動詞の表わす行為を他者に対し恩恵として行なう意を示す言い方を作る。「てやる」の丁寧な言い方。
である。したがって、本来であれば目下のものに対して使うのは適切ではないのだし、況して人間以外の生き物や物質(有機物・無機物)に対して用いるのは相応しくない。だが、前者については百歩譲って認めて良いのではとしても、後者に関しては明らかに行き過ぎとする意見が大勢である。また、近年は逆に目上の者に「あげる」を使うべきでないとする傾向にある(「さしあげる」を使うのがよい)。
一方では、「八百万の神」に表されるように、森羅万象あらゆるものに神性を見いだし敬い尊ぶという日本人の心性からすれば、動植物や無機物に対して「あげる」という表現は許容されるとの意見もある。
桃太郎の唱歌に「やりませう、やりませう」とあるのはは猿や犬に対するものなので、前者に照らせば全く正当なのだが、幼稚園などではかなり以前から「あげましょう、あげましょう」とわざわざ「誤った」表現に改変して教えている。しかし、後者の意見を採れば幼児期の情操教育という面からはふさわしい改変であるとも言える。
祝福すべき現状がそこに起きているのだから、過去に遡ってのことであっても過去形にするのは不適切である。
×お宅の長男はもう高校に進学するんですか。→(一番)上の息子さん、名前が分かっているのなら「○○君」とすべき 「御長男」とも
上は対外的に家族または親族を指す場合。基本的に敬称は要らない。親しい仲間内でならまだ許容できるものの、フォーマルな場面では不適切である。「お兄ちゃん・お姉ちゃん」「兄貴・姉貴」「親父」「おふくろ」なども同様に不適切。下は正誤以前の問題で、本人のいないところで話題として取り上げる場合であっても、「弟・妹」に関しても呼び捨ては拙いだろう。他人の両親に対して「×あなたの父(母)はお元気ですか」というのも問題外で「(お)父(母)上は―」が正しく、文語表現を使う人になると「ご母堂」「ご尊父」も。
「ご苦労様」とは、本来は目上の者が自分と同等か目下の者に対して労う時に用いるべきであるが、勘違い(混同)して目上の者に対して使ってしまうのが表記の事例である。したがってこの際は「お疲れ様です」これも目下にまたは同位のものに向かっての言葉なので、正式には「ありがとうございます」が正しいだろう。文化庁の調査によると、これ以外に単に「どうも」とだけ言う場合も稀にあるようで、これは目上に対してでも、同等か目下の者に対してであろうと相応しくないといえる。
謙譲語では、話中に登場する第三者が家族である場合「愚」を付けることがある。これを謙称という。最近は話し手のきょうだいや配偶者、子供に絞られている。したがって、例に挙げた以外にも「愚父」や「愚祖父(母)」などは控えた方がいい。もっとも、身内を貶めてまで相手を立てても先方は感心しないと捉え、殆ど聞かれなくなった表現であることも事実である。
これは敬称の重複。「社長」「部長」「専務」等の肩書きはそれ自体が敬称であり、「さん」を付けるのはむしろ軽蔑に当たる。
同様の理由から、逆に自社の社長を「社長」「○○社長」と呼ぶのは取引先や顧客に対しては失礼に当たる。「○○」「社長の○○」とするのが正しい。
「〜してください」という表現を使うことで相手に「君はわたしに指図するつもりか」と思われたくないので、深慮遠謀で左記の方が無難と感じることはあろう。だが、もし相手が嫌だと断わったら取り下げるわけにいかない事情があり、なおかつより丁寧に頼む場合は()内を使うべきだろう。
×とんでもございません(とんでもありません)。→とんでもない(とんでものうございます・とんでもないことでございます)。
「とんでもない」は、「とんでも」+「ない」の2文節ではなく、「危ない」「拙い」等と同様「とんでもない」で一つの形容詞とされるのが普通である。したがって、「ない」の部分のみを取り出して「ありません」や「ございません」に置き換えるのは、文法的に誤りであるとされる。山本富士子がこの言い回しを初めて使い、広まったという説が有力。
ただし、語源に遡れば「とんでもない」はもともと「途でも」+「なし」の2文節である。そのことから、「とんでもありません」も「途でも」+「ありません」と解することができ、必ずしも誤りであるとはいえないとする意見もある。
「嬉しい」は、望んでいた事態が実現して、心がうきうき、晴れ晴れとして楽しいことであり、「喜ばしい」とは愉快であること、満足すべきであること、喜ぶべきであることの意である。どちらも意味としては同じであるが、客観的または全体的な喜びである場合は両者とも用いられるものの、その逆、すなわち個人的または主観的な喜びを示す場合は「喜ばしい」とは言わない。
「御座なり」とは芸者がお座敷毎の格に合わせることであり、「等閑」とは心を込めず、雑にすること、手付かずのまま放ったらかすことである。どちらも「いい加減な、ぞんざいな」という意味では奇しくも似ているので誤解しやすい。その場凌ぎな対応であれば「おざなりな対応」、中途半端な対応ならば「なおざりな対応」とするべきである。
二者の意味の類似から「おざなり」と「なおざり」の混交した「おなざり」という新語を作ってしまい、使用している人もいる。
「信用」は、人の言動や物事を間違いないとして受け入れることであり、「信頼」は、信じて頼ることである。いずれも書いて字の如く、信じることが大前提としてあるわけだが、前者がある程度の疑いを伴うのに対して、後者は揺るぎない、絶対に間違いないとして受け入れることである。従って、信頼の代わりに使うのは、多少俗な表現といえる。
濁音が前のほうが言い易いため普及?したと考えられる。 あらたしい(新しい)があたらしいと変化したように、いずれ「したづつみ」が普通 になるかもしれない。 こづつみ⇒小包 こつづみ(小鼓)
「同音異義語」とは、発音が同じで意味が違う言葉のこと。誤用されやすい言葉の代表格といえよう。和語で言えば、たとえば農家で出荷した作物が買われて儲けが出る意の「売れる」のか、作物が熟す意の「熟れる」のか混同する場合もあり、ペットショップでペットをお金を出して「買う」のか、家族の一員として「飼う」のか、間違えることが稀にあるようで、注意が必要であろう。
「特長」とは、特に秀でている点、すなわち長所の意であり、「特徴」とは良きにつけ悪しきにつけ、そのものが持つ特有の性質、すなわち特色の意である。したがってよいところを指すのであれば前者を用いるのが望ましいが、一般的には「特徴」を使うことが多い。
古くから慣用化されている語ではそのまま使い分けられているものが多いが、最近ではこれらが混同されてしまい、とりわけ何でも「非」または「未」を付けてしまう場合が多い。また、確かに間違いではないが状況に合わせた使い分けがなされないことも多々ある。
「超」は「超過」「超越」の熟語が示す通り定義範囲(上限)からの逸脱を示す字であり、「〜すぎて最早〜とはいえない」の意で、特性の突出とカテゴライズの否定を同時に表す。したがって超えるべき上下限がそもそも想定できない多くの形容について、この字は本来添えることが出来ず、名詞に付加することで、(元来)存在しない上位カテゴリを指し示すのが正しい使い方である。すなわち「超人」は「もはや人とはいえない存在」で「人」ではなく、「超特急」は「特急を超える速度の列車」であって「特急」ではない。またここで「特急」は「特別に急ぐ」という形容ではなく、「特別急行列車」というカテゴリをあらわしていることを理解するのが肝要である。同様に「超ヘビー級」「超高層ビル」「超豪華客船」「超合金Z(架空の合金)」などの語の成り立ちは「超・ヘビー級」「超・高層ビル」「超・豪華客船」「超・合金Z」である。これを「超ヘビー・級」「超高層・ビル」「超豪華・客船」「超合金・Z」と誤解した者等が、誤って形容の強調と認識した部分を独立で使用することにより、「超」の誤用例が広まった。
この誤用はNHK教育の番組「ことばおじさんのナットク日本語塾」での調査によれば、1970年代に静岡県で使われ始めたとされている。
ただし、何らかの概念を超えているという意味の他にも、「非常に〜である、抜きん出て」という意味も辞書によっては載せられている。したがって「超大型」とは「大きすぎて最早大きいとはいえない」ではなく「抜きん出て大きい」の意と解釈したほうがよく、時代に即して新しい意味がもたらされたといえよう。
ちなみに「超新星」は、恒星が一生を終えるときに大爆発を起こすことである。「超」を取った「新星」は天文学的には「新しい星」を指すわけではない。「新星」を「新しい人気俳優」の意味で使うのは正しい用法だが、さらに「超」をつけて意味を強調し、「×期待の超新星」と誤用してしまう例がある。戦隊シリーズの『超新星フラッシュマン』が放映されたことなどの影響とも考えられる。[要出典]
一方で、若者言葉「超ウケる」は、上記「超大型」での用法であれば腹の皮がよじれるほどおかしい、すなわち馬鹿受けであるはずだが、実際には馬鹿笑いしているわけではなく、むしろ嘲笑に近い。とすれば、「滑稽すぎて笑う気にもならない」と解釈すべきであろう。しかしこれが原点回帰と考えるには底が浅すぎると言える。
物事をはっきりと言い切らず、曖昧にしてしまう「ぼかし表現」の代表的な例で、「わたし的には…」「気持ち的には…」のような濫用が目立つ。
昭和15年の例がある。[1]。対して2000年代の例は2000年の新語・流行語大賞トップテンに「私的には…」(飯島愛)が選ばれているように、「私としては」の意味合いで使われているようである。
「感」は「違和感」「透明感」など、「〜のような感じ」を表わす接尾辞である。本来は漢語の後に付くのが基本であり、和語などにつけるのは相応しくない。
なお、「×価値感」というのは「価値観」としたいところを誤記したものと考えられるが、「価値の度合い」と勘違いされて出来てしまったものとも捉えられよう。
助数詞とは、事物の数量を表す時に用いる語。古来不変のものではなく、現在使われている助数詞の多くは中国語から採り入れられたものである。音読みの語は漢字伝来前には存在し得ないので、頭・匹・人(にん)・杯・膳など音読みの助数詞は日本古来のものではない。
動物(ペット、家畜、野獣)の数え方で、どこまでが「1匹」でどこからが「1頭」なのかがあやふやなままで覚えている人が多い。大きい動物を頭で数えるのは英語で ten head of cattle (牛十頭)などとすることの影響であり、明治以前には大きな動物も匹で数えていた。「一匹狼」のような慣用表現は匹で数えていた名残であるが、現在では大きい動物は頭で小さい動物は匹で数えるという使い分けがあるので、「×子犬が1頭」という使い方はしない。ウサギは哺乳類であるものの「1羽」という数え方である(鵜+鷺にちなむとされる)が、しばしば「1匹」と誤って数えられる。魚は「1尾」という数え方が正しく、「1匹」とするのは俗な数え方である。イカ(烏賊)は、生き物としての場合は「1匹」であるが、料理の場合は「1杯」と数える。もっとも、これらの助数詞の故郷である中国ではまた違う使い分けが「正しい」とされている。
数え年より学年(早生まれか遅生まれか)を重視して「彼は僕より1個下なんだよ」とする「個」の誤用例がとりわけ若者に多い。また、袋入りやパック入り、箱入りの商品、もしくは豆腐(正しい数え方は「1丁」)など数え方が決まっているものに対して、「1個」と数えるのは、いずれも一考の余地がある。※ちなみに、年齢を含めて日本古来の数え方である「〜つ」ならば問題はないが、1から9までしかない。10は「とお」で、それ以降は「じゅういち、じゅうに」と数える。0というのはかつて日本の数学上存在しなかったようである。
多くの人が誤る例として、箪笥を「1セット」(正しくは「1棹」)と数えることなどがある。また、箸の数え方が「1膳」であることは若い人に限らず忘れられつつある。
「とんでもないです」の他、「危ないです」「美しいです」などを含めて形容詞に「です」を直接接続させたもの全般が誤りとされることがある。かつては一般的に誤用とされていたが、終戦直後に国語審議会は許容してよいとした。しかしながら現在においても、誤用とする考え方も根強い。より間違いのない表現は「とんでもないことです」。
動詞(ワ行五段活用)である「違い」が「暑い」「寒い」と同様に「い」が付く為に、形容詞と混同されたもの。挿入された“か”が余計。
ドック【dock】とは、船舶の建造・点検・修理を行なう施設のことで、人間ドックとは病院に滞在して総合的な健康診断を受けることである。したがって、ドッグ【dog】=犬では意味が成立しない。逆にホットドッグを「ホットドック」とする場合も然りである。こうした誤用は
もっとも、かつての日本語では促音(「っ」)の後に濁音が来ることがなかった。上記のように使用頻度の高い外来語で促音の後の濁音が清音化する傾向があるのはその名残である。外国語での発音に忠実か否かという観点で判断すれば上に挙げたのは「誤用」だが、日本語の伝統に忠実かという観点からは自然な発音ともいえる。
「余興、娯楽」の意を表わす「エンターテインメント」は、英語では【entertainment】と綴られるが、日本人には言い難いためか「ン」が抜けた「エンターテイメント」という誤読が定着した、と思われるが、英語でも "nm" という子音連続は言い難いため"n"を抜いた発音になることがあるため、かならずしも誤読とはいえない。日本語変換ソフトではどちらでも変換できるため、日常的にはさほど問題は生じない。「エンタメ」という略語も若者を中心に使われている。なお、広辞苑でもエンターテイメントと「ン」の入らない形で掲載されている。
アルファベットの T は、「ティー」と読むほうが英語での発音には近いが、「テー」のほうが伝統的な日本語の音韻に沿っている。また、フランス語やドイツ語での発音にも「テー」のほうが近い。英語での読み方を基準にすれば前者の読み方が望ましく、伝統的な日本語の音韻や仏語・独語を基準にすれば後者の読み方が望ましい。現在前者の読み方のほうが一般的だが、後者の読み方ではNTTが「エヌテーテー」(同様にTBSも「テービーエス」)、「ボランティア」が「ボランテア」、「パーティー」が「パーテー」になる。
アルファベットの D は、「ディー」と読むほうが英語での発音には近いが、「デー」のほうが伝統的な日本語の音韻に沿っている。また、フランス語やドイツ語での発音にも「デー」のほうが近い。英語での読み方を基準にすれば前者の読み方が望ましく、伝統的な日本語の音韻や仏語・独語を基準にすれば後者の読み方が望ましい。現在前者の読み方のほうが一般的だが、後者の読み方も地方の自動車車体会社名などでみられる「○○ボデー」(ボディ)、データベースの略語「DB」を「デービー」と発音するなど。また、「ディー」と発音すると「ビー(B)」や「ジー(G)」と聞き間違うおそれがあるため、例えば教師が選択肢BとDが存在する選択問題についての解説などで、それを防ぐためにあえて「デー」と発音する場合もある。
^ 劣勢を挽回、退勢を挽回、といった用法がある。劣勢を挽回する、はgoo辞書で、退勢を〜はパソコンの特定の漢字変換機能で確認できる。挽回、汚名、名誉などがつく言葉のうち、名誉挽回、汚名返上、汚名挽回、劣勢を挽回、退勢を挽回、はいずれも広辞苑第四版には載っていない。あるのは名誉を挽回する、汚名をそそぐ。
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[ 130] 誤用 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E7%94%A8

誤用(ごよう、英語:Misuse)とは、通常、言葉について云われ、ある言葉の伝統的・慣用的な意味や用法とは異なる、間違った意味や用法で、その言葉が使用されることを云う。
言葉や単語の意味における誤用以外に、ある特定の目的や用途を持つ物品や道具などが、本来の用途以外の目的などで使用される場合にも、誤用ということがある。
人間において、言語の普遍的な構造は先天的なものであるが、個別言語が存在することからも分かる通り、現実に使用される言語は後天的に学習され、フェルディナン・ド・ソシュールが述べた通り、シニフィエ(言葉の意味内容)とシニフィアン(意味を示す記号)のあいだの関係は恣意的である。
人間にとって言語を習得することは、それに必要な言語習得能力は先天的で共通のものとはいえ、ひとりひとりが個別的に文法構造や単語や、その単語の意味・用法を学習する過程になる。イヌとネコはどう違うのかは、言葉(記号)それ自体を学習・記憶する過程と同時に、それと関連づけられている画像や実物を見ることや(あるいは他の感覚で提示されることや)、その語がどのような文脈・規則の中で使われているのか、使用例を聞いたり読んだりすることで学習されてゆく。言語習得過程では、子供は非常に多数の言葉の「誤用」を行うが、経験を積むに連れ、誤用は減って行く。
人が成人したという場合、その言語における日常的な使用法については、「正しい用法」を習得しているということが暗黙で認められている。しかし、成人においても、言語習得過程で間違って覚えた言葉の意味や用法が残っていることがあり、また、使用したことがない言葉や、専門的な言葉などについては、その言葉の意味や用法で、知識の欠如の為や、言葉の独自な解釈などから、間違った理解が生じることがあり、この場合、誤用となる。
あるいは、似たような言葉と混同することで、誤用が生じたり、新しく造語された言葉や、外来語、新語などの場合、意味や用法をよく理解していないにも拘わらず、他の人が使っているというので、自分でも使った結果、誤用となることもある。専門的な分野などの術語(term)などでは、専門的な前提知識の理解が欠如または不足しているにも拘わらず、よく分からないままに言葉を使うことで誤用が生じることがある。
日本語などの場合では、漢字で表現される言葉が多く、表意文字として漢字自体に固有な意味があるので、二つ以上の漢字からなる言葉について、個々の漢字の意味から類推して言葉の意味を理解する、あるいは想定するということがあり、正しい理解になる場合と、間違った理解になって誤用を導くことがある。例えば、近年「性癖」という言葉を、「性的な癖」と考えて、性的嗜好の意味で使う誤用が生じているが、これは漢字の意味から類推して間違った意味理解が生じたのだと考えられる(性癖とは、癖と同じ意味の言葉である)。
英語やフランス語などでも、ラテン語やギリシア語などから来る、「接頭語+語幹+接尾語」というような形で単語が構成されていることがあり、ここから複雑な単語の意味を類推することが可能であるが、このような方法がうまく行く場合もあれば、意味の取り違え、誤用となる場合がある。例えば、defuse と diffuse は、前者は、de + fuse で、後者は、dis + fuse であるが、接頭辞が同じラテン語起源で似たような意味であっても、英語では同じ綴りになる「fuse」が語源的には別の意味の言葉である。発音的にも「ディフューズ」のような音で、後ろの「フューズ」にアクセントがあるため、両者の混同が生じ、誤用となっている例がある。
また古典的な例で、意図的な造語であり、かつ現在では誤用でないが、語源了解で誤解の起こり得る言葉に、トマス・モアが造語した Utopia(ユートピア)がある。これは元々は、「ou + topos + ia」で、「存在しない場所」の意味であるが、ギリシア語の接頭辞に「良い」を意味する eu があり、発音においては、英語ではどちらも「ユー」のような音の為、Utopia を、EUtopia と解釈して、意味的に間違いではないが語源的には勘違いを誘導していることがある(ユートピアは「理想郷」という意味に理解され、「良い場所=eu+topia」がこの解釈に合致する)。トマス・モア自身が、冗談半分で、Eutopia という言葉を、後になって造語しているので、余計に間違いが起こりやすい。
言葉の誤用は、個別言語学における通時的変異の一つの重要なファクタである。意味・用法の誤用に加え、発音における誤用も存在し、他の個別言語との接触や混成の過程では、発音が系統的に変化することがある。これは、変異が起こる具体的な場面・状況で見れば、個別的な発音の誤用(誤った発音)の蓄積である。このようにして、例えば印欧語に見られるグリムの法則などが成立したと云える。

 

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